お道の信心

 

 

  二代親先生が信奉者に信心を伝えるため、

  昭和52年12月に発行された冊子『金光教の信心』の中で

  信心とは、信心の向き、心の向かう道しるべを書き残されています。

 

  冊子より抜粋した文章であります。

「信心成長への心得」

 

 ○お礼

 

    生かされて生きている自分を知り、その事を喜び、力強く生きぬく生活がお礼。

    自分一人のために天地のすべてがお働きくだされてあるを悟り、すべてに合掌して

    感謝する生き方が人間生活の根本にいる。

    喜びは天地にみちてある。喜びを一つひとつに発見していく生き方こそ大事。

 

 

 ○祈り

 

  祈りは、何でもの精神のあらわれである。

  祈りのない生き方には未来がない。

    この道の祈りは、かけがえのない生命を、かけがえのない今日にかけることである。

  祈りが燃えれば、生命が勇む。生活に生き生きさが湧いて来る。生甲斐のある人生が、

    そこから生まれる。

 

 

 ○働き

 

     働きは、人生創造の一歩である。人間の生きてあるあかしである。

   人間としての使命(役前)遂行のもとである。

   働くとは、はたの人に楽してもらう、よろこんでもらう心からの事であらねばならぬ。

   働きを楽しめる人には、常に人生の光明がある。働きは人生を意義づけるもとである。

   力一杯の働きのあとに、素晴らしい喜びとやすらぎが与えられる。

 

 

 ○あらたまり

 

   あらたまりは、自分の足らざるを知って、新しく生まれ変わることである。

     助けられるには、毎日さらの生き方がいる。

     あらたまりだけを問題にせずに、助けられる生き方を求めよ。

     ちょっと(一寸)のこともよい加減にせぬ生き方をしていくことが大事である。

   常に生き生きと生きる事がいる。そこに勇みが生まれる。その事があらたまりにつながる。

     そこに喜びの生活があり、その生き方が助かりから助かりへの歩みにある。

 

 

 ○修行

 

   修行とは、あらゆる苦を喜びと勇みで受け止めていく生き方である。

     自分にむち打つ事がいる、不自由を喜び勇むことがいる。

     修行はつらい、つらい修行が有難いというところまで通らねば、本物の修行とはいえぬ。

     修行は人生一生の中味である。日々の生活が喜びの修行場である。

 

 

「信心 ~助かる道~」


 

  ○ 我々の信じている神様は、人間をこよなく愛して下されている神様であります。

   私たちの信心は、「氏子あっての神」とおっしゃられる神様を拝み頂き、力強く生き、

     助けられて行く往き道であります。

     神様の愛が広大無辺で「人間あっての神」であると人間の仕合せ(幸せ)、豊かな暮らしを

     祈り通してくだされている神様です。

 

 

  ○ 神様あっての私たちである・・・人間はすべてに恵まれなければ立ち行けぬ、仕合せ(幸せ)

     なれない事を分かって、一心に祈りすがり、明るく強く生かして頂く生き方が、お互いの

     信心であります。

 

 

  ○ 仕合せ(幸せ)とは、仕合うていくこと、あってのある・・・氏子あっての神、神あっての氏子          という、きってもきれない間柄の祈り合い頼み合い・・・神と人との仕合い・・・あいよかけよで

      立ち行く道、人間の助かりが神様の喜びであります。

    祈られて祈り、恵まれて喜び、助けられて勇み、世と人との為に、お役に立つことを喜ぶ

      生き方から真の仕合せ(幸せ)が授かる。

      人と人とも仕合うての生き方がいる。他を生かし、他と喜ばせ、立てあい、助かり合い、

      願い合い、頼み合いをし続けることがいる。その実践の中から仕合せ(幸せ)が授かる。

      その仕合う生き方が、この道の生き方である。

 

 

  ○ 夫あっての妻、妻あっての夫ー。あってのある二人であるから、相手の中に生き、相手を

      生かすこと。夫が世に出れば妻が称えられ、妻が立派であれば、必ず夫は成功する。

 

 

  ○ 親あっての子、子あっての親、親と子は愛と血のつながりであり、拝み合い、頼み合い、

      願い合いの中にある。

      この世のすべては、この”あってのある”の事実の中にある営み、あいよかけよでの生き方で       

   、立ち行かせていただけるのである。

 

  ○ 金光教は、生きる力と生きる喜びが授かる道であり、すべてに恵まれ、育てられ、助けられる        道である。

      その助けられる道を、日々に求め祈りつつ、一つひとつの事を大切にして行く生き方、

      ・・・ちょっと(一寸)の事もよい加減にせぬ生き方が道の信心である。

 

 

  ○ 生かされて生きている人間、恵まれて生かされているのが人間である。

   恵まれるということは、人間の理屈では割り出せるものではない。

   働くことを喜び、苦労をいとわず、人を祈り、人を愛して世のお役に立つ生き方に勇み、

      思い上がる事なく、たゆまず、ゆるめず、祈り願い、祈りに祈り、御教えをよく聞き、自らを

      あらためて、ちょっと(一寸)の事もよい加減にせぬ生き方を日々にしていく中で、不思議や

      お恵みが授かるものである。

 

 

  ○ 祈りは命、祈りは生活のシン。祈りに生き、祈りに行かされ、日々に生き力が授かり、

      喜び~喜びのおかげを頂きつつ、育てられていくのがこの道である。

 

 

 ○ 祈りは神様との対話である。

       その対話を通して生きる喜びと、勇みが授かる。神様との対話を楽しみに生きることが

       大切である。

 

 

 ○「なんでもの願い」に生きる、生き貫くことが、人生生活にはいり通す。困って困らず、

      疲れて疲れぬ勇みこそ、何でもの願いの生き姿である。

    われに不可能なしと、出会う一切に育てられ、すべてをおかげにしていく生き方こそ、

      この道の生き方である。

 

 

 ○ なんでもの願いは、自分だけの願いでなく、神様が願い通してくだされている願いである。

       助かってくれよ、助けずにおかぬ御神願を頂き通しての願いーなんでもの願いで、

       おかげからおかげへ、助かりから助かりへの歩みを、明るく勇気をもって、真心をこめ

       生きていくことこそ金光教である。

 

 

 ○ 金光教は、あらゆる難儀が助けられてゆく道、心の助かりも、形の助かりも頂ける、

       生活全面にわたっておかげが頂ける道である。

 

 

 ○ 人が助かりさえすればよいとの御神願をシッカと受け止め、祈りまかしすがれば、

       必ず助けられるのである。その助けられ行く歩みこそ、この道の歩みである。

 

 

 ○ 金光教の信心によって、病いもいやされる、経済にも恵まれる、心のやすらぎも授かる、

       子々孫々まで繁昌させていただけ、親先祖の霊様まで救われゆく。

  金光教は素晴らしい道である。

       しっかりと心を定めて祈り願い、その信心をされよ。

 

 

 ○ 金光教は家庭の和合を大事にする教えである。

  「信心は家内に不和のなきがもとなり」と教えられている。その教えを先ず我が家で実践し、           日々自分をあらため、正して、家族がどうよくなっていくかを求め祈る事が大切である。

 

 

 ○ 金光教は、親に孝行を実践する道である。

  先ず親様の有難い思いに添い、親に喜んでいただくことからはじめる道である。

  親こそは生ける神様、親を大切にすることこそ人間としての真の道である。

  親によろこんでいただくことこそがおかげへの道。

  親をないがしろにするとおかげはなくなる。

 

 

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